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この世には人の数ほど"意見"があります。
まさに十人十色。
それを全て揃えることなど不可能であり、それは事実でしょう。
ですがそもそも、"意見"を揃える必要はありません。
必要なのは"意見"を揃えることではなく、各々が"理解"を共有することであるからです。
"意見"と言うのはすなわち"独自の解釈"です。
この時点で他人と同じになるわけがありません。
だって"独自の解釈"なのですから。
それでは"理解"とは何でしょうか。
"理解"とは「真実」を知ることです。
それは"独自の解釈"が入り込む余地などない、"ひとつの真理"です。
例えば目の前に"リンゴ"があるとして、それをありのままに“リンゴ“だと判別が出来ること。
"リンゴ"はどんな人からみてもリンゴ。
動物から見てもリンゴ。
地球からしてもリンゴ。
宇宙からしてもリンゴです。
※"リンゴ"という"言葉"は人間独自の解釈ですが。
この様に"理解"さえあれば、そこに"意見の相違"は存在し得ないのです。
僕たち人類に必要なのはこの"理解"です。
この"理解"さえ共有することが出来れば、その時に初めて僕たちは戦争を手放すことが出来ます。
しかし不思議に思われるかもしれませんが、例え人類全員が目覚めようとも、全員の意見が揃うことも、ましてや"平和"が訪れることもありません。
何故ならその「目覚め」ですら、この世においては"独自の解釈"の域を出ないからです。
単に目覚めるだけでは足りないということなのです。
大切なのは、その経験を自分の人生や、この宇宙や地球に対して現実的にどう活用していくのか。
また、例え目覚めたとしても"この世の存在意義"を示せないのであれば、目覚める意味など無いも同然です。
そうでなければ、生きながらにして目覚める必要性など存在しないのではないでしょうか。
むしろ使い方を誤れば「目覚め」ほどやっかいなものはないかもしれません。
※"覚醒剤"とはよく言ったのもです。
僕たち人間は、この「目覚め」すらも私欲のためのツールとして扱ってしまう愚かさを秘めた生き物なのです。
詰まるところ、僕は他者へ向けて「目覚め」に関する"独自の解釈"を伝える必要性は無いと思っています。
例え真理を垣間見たとしても、決してそれを"自分の持ち物"にしてはいけないと考えているからです。
何故ならそうしてしまった時点で、真理ですらも"独自の解釈"に成り下がってしまいます。
釈迦が己の理解を決して書物に残さなかったというのはきっとこのためでしょう。
人類全体が自分たちの存在や他の生命たちのことを真に"理解"しない限り、巷で囁かれているような"ワンネス"など訪れるはずもないのです。
また、目覚めても尚私欲を優先してしまうのであれば、目覚める意味などありません。
そういった方々は例え目覚めているとしても、まだ本当の意味で"理解"しているとは言えないのではないでしょうか。
結局のところ…
必要なのは「目覚め」の体験ではありません。
真に必要なのはシンプルに"人間としての成長"…
即ち
"魂を育んでいくこと"に他なりません。
本当の哀しみを知った瞳は 愛に溢れています。
そこには慈しみの心があります。
その重要性を知ることは、目覚めることの意義を遥かに凌ぎます。
僕たち人間はこの宇宙において、自分たちが思っているほど大層な存在ではありません。
"真の平和"とは紛れもなく、人類全体が自分以外の存在と"完璧に調和すること"を意味します。
そしてそれは僕たちが各々の魂を磨いていき、他者や他の生命たちに対する"慈しみの心"をシェア出来た時に、初めて生まれるものなのです。
★"僕たちの地球"ではなく、"地球の僕たち"。僕らはみんな、生きている。
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